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2年連続30勝も過酷な時代を生きた権藤博氏 監督として38年ぶりの優勝も経験


2年連続30勝も過酷な時代を生きた権藤博氏 監督として38年ぶりの優勝も経験

2019年01月16日

2019年の野球殿堂エキスパート表彰で選出された権藤博氏

 2019年の野球殿堂エキスパート表彰で選出された権藤博氏は、1938年12月佐賀県生まれ。佐賀県立鳥巣高校を経て社会人のブリジストンでプレー、1961年に中日に入団した。同い年には巨人V9時の正遊撃手・黒江透修、ロッテの正捕手・醍醐猛夫、広島の中軸・山本一義などがいた。

 社会人時代から威力のあるボールを投げることで知られ、中日は杉下茂がつけた背番号「20」を新人の権藤に与えた。濃人貴実(渉)監督は、1年目から主戦投手として起用。開幕2戦目で完投勝利を挙げたのを皮切りに、1年目の1961年はリーグ最多の69試合に登板。35勝19敗で最多勝。さらに防御率は1.70で1位、32完投12完封、310奪三振もリーグ1位と、投手タイトルを総なめした。

 この年の権藤の投手記録を先発と救援に分けると

・先発 44試合28勝12敗342回 防御率1.63
・救援 25試合7勝7敗87.1回 防御率1.96

 となる。セーブ制度は当時はなかったが、今の基準でカウントすると7セーブとなる。

 先発、救援での大活躍ぶりに、スポーツ紙は「権藤、権藤、雨、権藤、雨、雨、権藤、雨、権藤」という見出しを掲げた。事実、1961年の権藤は、連投が19回(このうちダブルヘッダーの連投が4回)、これに加えオールスター戦でも連投していた。

監督としてはわずか3年だったが優勝1回、3位2回と全てAクラス

 翌年も権藤は30勝(17敗)で最多勝。2年連続30勝は1939・40年のスタルヒン、1957〜59年の稲尾和久(3年連続)の3人しかいない。

 しかし2年間で792回、1万球を超える球数を投げた権藤には、もう余力はなかった。翌年から3年間で17勝しか挙げられず、投手を断念。打撃成績も優秀だったことから、1965年から内野手に転向、しかし野手としては打率は1967年の.215が最高。この年リーグ最多の26犠打を記録したものの、レギュラーにはなれなかった。翌、1968年に杉下茂が監督に就任すると、再び投手に復帰し1勝を挙げたが、この年限りで引退した。

通算成績は
 投手 210登板82勝60敗1136回667奪三振 防御率2.69
 野手 463試合1041打数214安打18本塁打85打点12盗塁 打率.206

 引退後は、解説者を経て中日、近鉄、ダイエー、横浜でコーチを歴任。自身の過酷な経験から、投手陣の「先発・救援分業」を推進。1998年に横浜ベイスターズの監督に就任すると、チームを38年ぶりの優勝に導く。その後、解説者を経て中日の投手コーチに復帰。さらに、2016年には侍ジャパンの投手コーチに就任。2017年の第4回WBCでは78歳の高齢で、投手陣を取り仕切った。

 監督としての通算成績は407試合219勝186敗2分、勝率.541。わずか3年だったが、優勝1回、3位2回。すべてAクラスだった。現役時代は、酷使に耐えて大車輪の活躍をしたエース、指導者としては選手の側に寄り添い、新しい指導法も取り入れた先進的な指導者。権藤博氏は2つの野球人生を生きた、稀有の野球人と言えるだろう。(広尾晃 / Koh Hiroo)


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